抑圧の次に、これが来るのに特に意味はありません。
順不同でいきます(笑
《真実の愛》
【引用1】
「相手の異性に幻想を貼り付けず、そのまま見て、そのままの彼または彼女に多なかれ少なかれ好意を持ち、彼または彼女のために何かちょっとしたことでもしてあげたいぐらいの気持ちがあれば真実の愛といっていいと思う」
(唯幻論物語より引用)
【引用2】
「したがって、愛するということは、愛しているかのごとくふるまうことであり、真実の愛と偽られた恋愛との間に何の差異もない。」
(ものぐさ精神分析恋愛論p144)

【解説】
引用1は、著作「唯幻論物語」の中で「インチキ恋愛」の分析に関して、ついでに言及している箇所である。インチキ恋愛を言及しているのであるから、真実の愛を想定しているわけである。
引用2は、恋愛は形式であり、主観の問題ではなく、行動の問題であると言っている。
1と2は、論理的には矛盾するように見えるが、インチキ恋愛(転移恋愛)はその主観的熱烈さに反して、行動が伴わないのであるから、まったく矛盾しないのである。
私見
唯幻論は相対主義だと勘違いする人も非常に多いと思う。私もそうだった。いや、相対主義は、唯幻論の主要な一部分なのかもしれない。
「絶対的、普遍的真理などない」と読めないこともないだろう。しかし、唯幻論の立場は、普遍的な真理があろうがなかろうがあまり問題にしていないのである。どうでもいいといっていると思う。たいていの日本人が、唯一絶対神の存在の有無などどちらでもいい、あまり関心がないのと同じように。ただ、唯一絶対神を押し付けられることには、大いに反発する。問題意識や問題の立て方が違うという言い方もできるだろう。唯幻論では、真実とは自明なありふれたことなので、「何が真実か」とはあまり問わず、「なぜ真実にこだわるのか?なぜ真実に絶対的な価値を置くのか?なぜ真実を他人に押し付けるのか?」と問うのである。
では、普遍的な真理とか真実が唯幻論にまったくないかというと、隅のほうにはあるのである。上記の「真実の恋愛」についての言及が、「真実や真理」に一般化されるかどうかわからないが、
真実や真理とは、ごく当たり前の常識的な、多くの人が了解可能な、歴史的にも共通な、幼稚園で教えるような、取り立てて問題にするほど特別な事柄ではない。真理とは、あるひとつの立場、前提である。
また、「主観」と「行動や結果」にずれがある場合には、「行動や結果」に真をおく立場が、精神分析であり、唯幻論である。この場合は、抽象的な真実ではなく、個別具体的な真実である。

【痛烈な批判】
真実の自己、キリスト教一神教、理性主義等々、普遍的真理の絶対視を前提とした思想や宗教が、いかに害毒を世に撒き散らしているかということに対しては、多くの著作で触れられている。