性的虐待
【引用】
「例えば、女の子は、幼いときに性的虐待を受けると、セックスに恐怖と嫌悪を抱き、セックスを拒絶する堅苦しい女か、逆に、誰とでも簡単に寝るセックス好きの淫乱女のどちらかの極端になるといわれるが、後者の場合、セックス好きとは言っても、セックスそのものが好きで積極的に楽しむのではなく、客を選べない低級売春婦になるとか、わざわざひどい男に引っかかるかとかして、屈辱的に強いられるセックスを求める。(後略)」
(唯幻論物語、p72)

【解説】
このたとえ話は、極端なたとえ話ではあるが、反復強迫そのものを端的にあらわしている。この後の文章で、何を目指して、反復強迫するのかの考察が続く(全文参照)。もちろん、反復強迫をする当人は、それが反復強迫であることに、気がついていない。もし同じことの繰り返しだと気がついてたとしても、いろいろな偽りの理由や事情で、強く誘惑されて反復強迫は続くであろう。セックスに自然に向き合うことができない。強いこだわりを持っている。自分の意思とは別のものに誘惑されているような感じがする場合には、抑圧されている何物かがあると疑える。

【引用】
伊丹
「僕は岸田さんの『ものぐさ精神分析』を読んで一種震撼させられたんですね。実存的胴震いといいますかねえ、正体はよく判らないんだけれど、非常に深いところで眠りを醒まされたという気がしたんですよね。でね、何に震撼させられたのかって言うと、これはうまくいえないんですが、学問を自分に仕えさせるって言うところが非常に面白かったですね。僕は大学というところを知らないものですから、学問というものは、貴い山の頂にあるが如く、自分と断絶したものとして眺める癖があった。山の頂に輝いている有難い光のようなものの残照でですね、裾野にいる私は、自分の内面を照らしてみている、といったイメージなんですね。ところが岸田さんの場合、もうなんていうか、フロイドならフロイドを、もろ手掴みにして、それを懐中電灯代わりにして自分の中を検査しているようなことをやっているわけでしょう?そこが非常に面白かったですね。確かに当たり前といえば当たり前のことなんで、つまり、自分自身が生きていくうえに何の役にも立たない学問って言うのは、私にとってなくてもいいわけですからね。」
岸田
「誰にとってもなくてもいいわけです。(後略)」
(保育器の中の大人p6)

【どんなウロコ】
学問の権威?
【ウロコが落ちてどうなった?】
学問を仕えさせるようになった?
【蛇足】
伊丹十三氏は、岸田秀より有名な唯幻論者だったかもしれません。

般若心経

岸田秀現代語訳】

 真実に目覚めるための教え。

知恵を働かせ、深く考えれば、
全ては幻想であること、身体も精神も幻想であることが分かる。
それが分かれば、一切の苦しみから解放される。

現実は幻想であり、幻想が現実である。
感覚も思想も理性も知識も幻想である。
世界に存在する全てのものも幻想である。

故に、生じることも消滅することもなく、
濁ることも澄むこともなく、
増えもせず減りもしない。
目や耳や舌や身体や心も幻想であり、
それらで感じる形、声、香り、味、手触り、感情も幻想である。
目に見える世界も、意識する世界も幻想である。
愚かさも幻想であり、愚かさからの脱出も幻想である。
老いや死も幻想であり、老いや死からの解放も幻想である。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみからの解放も幻想である。
知性も幻想であり、悟りも幻想である。

このように全ては幻想であることが分かれば、心に囚われが無くなる。
心に囚われが無くなると、恐れが無くなる。
故に一切の迷いから覚めて、無上の安らぎに至るのである。

これが真実に目覚める教えであり、この教えこそが、

大いなる霊力の言葉であり、
賢明なる言葉であり、
この上なき言葉であり、
比類無き言葉である。

故に、一切の苦しみを取り除き、真実にして空しさが無い。

さあ、真実に目覚める言葉を唱えよう。
行こう、行こう、真実の世界へ行こう。
みんな一緒に行こう。
正しい悟りを譲受しよう。

真実の教えを終わる。

【読み下し文】
佛説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩、
般若波羅蜜多を行ずる時、
五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。

舎利子よ、
色は空に異ならず。
空は色に異ならず、色即ち是れ空、空即ち是れ色。
受想行識も亦復、是の如し。
舎利子よ、
是の諸法は空相にして生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。
是の故に空中には色もなく、受想行識もなし、眼耳鼻舌身意もなく、色聲香味觸法もなし、眼界もなく、
乃至意識界もなし、無明なく、
亦た無明の盡ることもなし、老死もなく、亦た老死の盡ることもなし。
苦集滅道もなく、智もなく亦た得も無し、
所得なきを以ての故に、菩提薩垂は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に圭碍なし。
圭碍なき故に、恐怖あること無し。
一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。
三世諸仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三貘三菩提を得たまえり。
故に知る、般若波羅蜜多は、
是れ大神呪なり、是れ大明呪なり。
是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。
能く一切の苦を除きて、真実にして虚しからざるの故に、般若波羅蜜多の呪を説く。
即ち呪を説いて曰く、

羯諦羯諦。
波羅羯諦。
波羅僧羯諦。
菩提娑婆訶

般若心経






【原文】


仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三貌三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経

自由
【引用】
「われわれは、無意識的動機に引きずられ、支配されるが、それを意識化し、意識的動機とするならば、逆にそれを支配できる。ヨーロッパの偉い哲学者の誰かが言っていたように思うが、そして同じ趣旨で言われたのかどうか知らないが、自由とは必然性の自覚なのである。」
(唯幻論物語p109)
【解説】
反復強迫される行為は、無意識的動機に支配されているが、無意識は自覚できないので、自分でそれをコントロールすることはできない。つまり、反復強迫が自由を奪っているのである。不自由なのである。自由を取り戻すためには、無意識的動機を自覚する必要がある。つまり、反復強迫の動機を自覚できれば、自由になるのである。

【私論】
唯幻論は、心の自由を目指す哲学といっても良いと思う。さらに、いわゆる「自由とは何か」という(哲学的?)問題に、一つの回答を出している。

【つけたし】
「自由とは必然性の洞察」と言ったのはサルトルのようです。同じ趣旨から言ってるのかどうか、私はサルトルを理解できないので、不明。もっと調べてみると、ヘーゲルか、スピノザかもしれません。

躁鬱病

【引用】
躁鬱病患者は、対立した二つの自我(幻想我と現実我(引用者注))がそのまま固定されて、その間を往復する人です。」
(日本がアメリカを赦す日p84)

【解説】
これは、幻想我と現実我を説明するためのたとえ話として、記された箇所である。これも前後の流れを読まないとわかりにくい。

【ということは】
躁鬱病の患者でなくても、幻想我と現実我の対立があるわけで、本質的には、躁鬱病的なのが人間ということになる。ただ、本物の躁鬱病患者は、現実にあわせて幻想我と現実我の使い分けをしない。現実を無視して、どちらか一方の自我に固執するということだろう。普通の人は、二つを使い分ける。もちろん間違えも多いが。落ち込む時と、未来が開けたように思う時と、誰でもあるじゃないですか。

【一般定義】
双極性障害躁鬱病(引用者注))は、躁状態を伴う双極I型障害と、軽躁状態を伴う双極II型障害に区分される。

後述の躁状態が1回認められれば、双極I型障害と診断がなされる。1回の躁状態で終わる症例は稀であり[要出典]、一般には、うつ状態躁状態のいずれかが、症状のない回復期を伴いつつ、繰り返していくことが多い。躁状態から次の躁状態までの間隔は数カ月単位という場合から、数十年という場合もある。また、うつ状態躁状態が混ざって存在する混合病相が生じる場合もある。

これに対して、うつ状態と軽躁状態のみが認められる場合を、双極?型障害と呼ぶ。ただし、この双極II型障害については、軽躁状態そのものが、患者や家族には認識されていないことも多く、自覚的には反復性のうつ病であると考えている患者も多い。

症例によっては季節に左右されることもある。うつ状態から急に躁状態になること(躁転)はまれでなく、一晩のうちに躁転することもある。また1年のうちに4回以上うつ状態躁状態を繰り返すものを急速交代型(Rapid Cycler)と呼ぶ。
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